IGD 目次
 


 
  28歳の集団力学研究所(7)(1995)
       − 研究所を支えた侍たち(その1) −
  

 研究所のスタートは昭和42年(1967)である。そのことは、このシリーズの第1回目にも書いた。そして、今年は1995年。1995−1967=28。実に簡単な引き算である。したがって本稿のタイトルも「28歳の集団力学研究所」となるはずである…。ところが前回新しい年を迎えて間もなく書いた、「三隅所長”レビン賞”受賞式同行記」は「27歳の集団力学研究所」となっている。単純な引き算の間違いなのだが、どうして気がつかなかったのかはわからない。人間が引き起こすエラーはそんなものなのだろう。指折り数えるまでもなく、ちょっと考えれば何のこともなくわかるのに、それに気がつかないのである。それに、前回の原稿を読んでいて「やれやれ」と思うことがあった。レビン賞を授与する SPSSI( The Society for the Psychological Study of Social Issues )について説明するくだりで「アメリカ心理学会の重要な部門の一つひとつに『社会問題に関する心理学的研究学会』があり…」と書いている。ワープロの辞書に「一つひとつ」を「ひとつ」という読みで登録していたのである。「ひとつ」と書いたつもりが「一つひとつ」と「ひとつ」おまけがついたというわけである。大した量でもないのに「校正」を端折ったのだろうか。正直な話、わたしはチェックをまったくしないままに研究所に原稿を送るような性格ではないつもりだ。斜め読みにしても、少なくとも一度は確認したはずである。その斜め読みがいけなかったのだろうか。いやいやそうではないだろう。これもよくある「ヒューマン・エラー」のひとつにちがいない。考えてみれば複数の人間が校正したと思われるものでさえ、印刷物になってはじめて間違いがあることに気づくことは珍しくないからである。いま集団力学研究所では「ヒューマン・エラー」についての読書会が行われている。読んでいる文献は、" Human Error " (James Reason, Cambridge Uni-versity Press, 1990)である。そこでは、「mistake」と「slip」そして「lapse」という3つの言葉が使われている。James によると、まず「ミステイク(mistake)」とは、行われている行為は所期の意図やプランの通りに実行されているが、その意図やプランそのものが不適切なために生じるエラーである。利用できる情報を判断したり、目標を設定する際の誤り、あるいは目標を達成するために求められる手段の選択が適切になされなかったことによってエラーが起こるのである。「スリップ(slip)」は、行われるべき行為は目標達成のために適切なものであるが、実際の行為そのものがあらかじめ期待されている意図やプランにしたがって実行されないことによって起こるエラーである。最後の「ラプス(lapse)」は、「スリップ」と条件はほとんど同じで、やはり手段とされている行為そのものは目標の達成にとって適切なのだが、それが意図されたあるいはプランされたとおりに実行されないことによって生じる。ただし、その理由が意図やプランを忘れてしまったり、どんな行為が求められているかを記憶の倉庫からうまく取り出すことができないために起こるとされる。後者は「記憶検索」の誤りという点に重点が置かれているようだ。ひとことで「ヒューマン・エラー」といっても、実に細かい定義づけができるものだと感心してしまった。そして、メンバーの間では、三隅先生が車で運転中に交差点の赤信号に気づかず走り抜けてしまったのは、「mistake」と「slip」と「lapse」のうちどれにあたるのか。三隅先生が狭い道で車のドアを開けて出ようとしたときにドアに手を挟まれてしまったのは何なのか…。こんな議論も交えながら研究会は回を重ねて6月で4回目になろうとしている。この一年間のうちには、「ヒューマン・エラー」研究の新しい展望が開けるはずである。
 前置きが長いのはいつものこと。もう予定紙数の半分を食ってしまった。そろそろ本題に入らなくては…。さて、今回から「◎◎歳の集団力学研究所」シリーズの中で、ちょっとしたシリーズものを企画した。題して「−研究所をささえた侍たち−」。これまで集団力学研究所員として勤められた方々をはじめ、研究所と少なからぬかかわりを持った人々について書いてみたい。「侍」といえば男性である。「−研究所をささえた侍たち−」という表題を採用する限り女性は登場しないことになる。しかしながら研究所は男性だけの力で育ってきたのではない。研究所の発展に貢献した女性も数多い。したがって、女性についても、このシリーズで必ず言及しなければならないと思っている。しかし、まずは男性について、その思い出を語ってみたい。
 
高禎助氏(久留米信愛女学院短期大学教授)
 「高禎助氏」と書くと何とも堅い気がする。私にとってはやっぱり「高さん」と呼ばせていただいた方が気持ちが落ちついていい。高さんについては、本シリーズ5回目の「三菱重工長崎造船所における組織開発」でも、その活躍ぶりをご紹介した。高さんは冗談で「自分は刑務所帰り」とおっしゃっていた。九大卒業後、奈良かどこかの刑務所で心理の専門職としてお仕事をされていたようなお話であった。正式に研究所員になられたのは昭和45年のことである。まさに草創期の専任スタッフだった。基本的には非常にやさしい人なのだが、当時学部の学生であったわれわれは「恐そうな人」というイメージを持っていた。実際、川端の西銀ビルにあった研究所に行くと、いつもむずかしそうな顔をした高さんが椅子に座っていた。その場に居た仲間で昼食に出かけるときも、高さんがいっしょだったことはない。そのころは三菱のことで頭がいっぱいだったのかも知れない。それに、たわいのないギャグや冗談を言って喜んだりはしゃいだりしている20歳そこそこのわれわれとはとてもまともにつき合う気にはなれなかったのではないだろうか。昭和9年生まれの高さんはすでに40歳に近かったからである。しかし、長崎のトレーニングにつれて行ってもらってからは、その印象はかなり変わった。長崎造船所のスタッフと話すときの高さんの生き生きした顔とやさしさは非常に印象的だった。もっとも、仕事についてはやはり厳しい方ではあった。雲仙の小浜で作業長のトレーニングが行われたときのことである。私は「相互評価」と呼ばれるメンバー相互のリーダーシップ評価について、その集計をし結果を模造紙にまとめるという仕事を与えられた。その集計表の一部に計算ミスがあったのである。このとき高さんから、「これは仕事なんだ。もっとしっかりしてもらわなければ困るじゃないか」とスタッフの前で厳しく叱られた。しかし、それからしばらくして、高さんはひとりでいるわたしのところへやって来られた。「吉田君、さっきはどうも。厳しすぎるかなと思ったけれど、これはやはり真剣勝負の仕事なんだよ。あのデータを見てみんなが一所懸命に考えるんだ。それほど大切なデータをつくる仕事をあなたはしているのだから…」。いまでも心に残っている一言であった。それからというもの、それこそ全国津々浦々、高さんのトレーニングについて回った。その回数は思い出すこともできない。こうして私はトレーニングの魅力にとりつかれていくのである。
 ここですでに予定の紙数に達してしまった。「侍たち」というからには、せめてお二人は紹介しなければタイトルに偽りありとなるのだが…。いうまでもなく研究所を支えてきた侍たちの数は多い。これからしばらくは同じタイトルで「研究所の侍群像」をつづけたい。ただし、「自分のことは勝手に書くな」と言われる方は、できるだけ速やかにお知らせいただきたい。ところで、このシリーズでは三隅先生にご登場願うことはない。なぜなら三隅先生は「侍」ではなく「お殿様」だからである。



 
  28歳の集団力学研究所(8)
       − 研究所を支えた侍たち(その2) −
  

 さて、伝統の研究所を支えた「侍群像」の2回目である。今回は研究所草創期の二人の侍、関文恭氏と篠原弘章氏にご登場願うことにする。
 
関文恭氏(九州大学教授・研究所副所長)
 関先生も前回の高禎助氏と同様に、わたしにとってはやっぱり関さんとしか呼びようがない。その関さんはすでに本シリーズ第1回目にも登場していただいた。学園紛争華やかなりしころ、「無期限スト」ですることもなく困っていたわたしに、研究所の仕事を手伝ってくれないかと声をかけてくださった。あれから25年は経過している。関さんには公私を問わず言い尽くせないほどのお世話になった。もともと禅寺「乳峰寺」のご住職の息子さんで、そのせいなのかどうかは分からないが、とにかく心から人に尽くすタイプの人である。私の結婚式では司会をしていただいた。ご媒酌は三隅先生ご夫妻にお願いしたが、いわゆる大学の友人たちは人数の都合でまったく呼ばなかった。それを人数ではなく別の理由で呼ばなかったのではないかと誤解した(?)人もいたようだ。実は関さんもそのひとりで、「司会させられたので何も言えなかった。そのうえ、席が吉田君のおとうさんの隣だったので、まったく飲めなかった」と嘆いておられた。実は私の父は生来の下戸でアルコールは一滴もやらなかったのである。まことに申し訳ないことをしてしまった。
 その後2年ほどして、はじめて子どもができたときのことである。世の中で風疹が大流行し、なんと家内もその流行に乗り遅れず、見事に風疹にかかってしまった。妊娠中の風疹は子どもにとってきわめて深刻な影響を与えるという。迷いに迷って、当時すでに九大の医療短大におられた関さんに相談すると、すぐに専門のお医者さんを紹介していただいた。その先生は、日本でも有数といわれる風疹の第一級のお医者さんであった。とにかく人が困っているとじっとしておれない。それが関さんなのである。アルコールの修行もずいぶんさせていただいた。いまは懐かしき中州の「樅の木」。いったいどのくらい関さんについて行ったことだろう。太宰府に自宅を建てられてからも本当に頻繁に転がり込んだ。奥様もさすが関さんの眼鏡にかなった方だけあって、実に気さく。ついつい足は太宰府へと向かうのであった。あまりにもプライベートな思い出にふけってしまった。もっと研究所にかかわりのあることを書かなければならない。何といっても研究所にとって最も大事なこと、それは関さんは、すぐにご紹介する篠原弘章さんといっしょに、昭和45年に研究所最初の専任スタッフになった方なのである。そのころすでに研究所はスタートしており、現在福大におられる武田忠輔先生も草創期の研究所で仕事をされてはいたが、あくまで専任として仕事に従事したのは関さんたちがはじめてだったはずである。
 関さんとご一緒した仕事のなかでとくに記憶に残っているのは、ブリヂストンタイヤの天ヶ瀬保養所でのトレーニングである。朝が早いということで、当時独身の関さんがご両親と同居されていた博多駅近くの乳峰寺に泊めていただいた。その翌朝天ヶ瀬に向かった。研究所が開発し実践がすすめられているリーダーシップ・トレーニングの基礎的研究はこの時期にスターとしたのである。トレーニングの内容も大変おもしろく勉強になったが、帰りの列車もまた楽しい思い出である。トレーニングを終えた参加者たちとともにおみやげにそば饅頭を買い込み列車に乗る。そこはもう宴会場であった。差しつ差されつといいたいところだが、当時のわたしはまだ二十歳そこそこ、まだアルコールの味は覚えたてのころである。こちらは相手に酒を差すということはなく、ただただブリヂストンのおじさんたちに飲まされた。しかし、こうした人たちとのつき合いを通じて、「ものを作る人は本当にまじめで心暖かい人が多い」ということを知った。それはただ飲ませてもらったからそう思ったのでないことはまちがいない。そして、こうした思い出にひたるたびに、いつも身近におられた関さんの顔が浮かぶのである。
 
篠原弘章氏(熊本大学助教授)
 篠原さんも関さんといっしょに研究所の初代専任スタッフになった。この二人はある意味では名コンビというべきかも知れないが、その性格はきわめて対照的、関さんがひらめき型で比較的行動も速いのに対して、篠原さんはじっくりタイプである。コンピュータが世の中に登場しはじめた1970年代はじめのことである。そのころ九州大学には「全国共同利用大型電子計算機センター」という物々しい名前の施設ができた。建設途上に米軍の戦闘機ファントムが墜落したといういわくつきの建物である。大量のデータ処理をすることの多い集団力学教室では、文化系の中ではめずらしく電算機利用に対する需要が大きかった。そこでみんながプログラムの勉強をしはじめたのである。当時はプログラムといえば、FORTRANしかなかったが、これを多くの先輩たちは比較的すばやく習得した。関さんもその一人だったと思う。それに比べると篠原さんのすすみ方はそれほど速くなかったようだ。ところが、関さんたちが、「このくらい使えればもういいだろう」とある程度のところで満足したのに対して、篠原さんは留まるところを知らず、コンピュータの専門家も脱帽するほどの勉強を続けていったのである。この粘り強さこそが篠原さんの身上だと思う。こうしていまでは心理学の領域では欠くことのできないコンピュータ・プログラムの本を何冊もものにしている。「継続は力なり」を文字どおり生きざまとして示している人である。また、篠原さんもアルコ−ルがいける口で、酔えば談論風発、とくに統計の話になるとこれが止まらない。飲む度に統計の話も次第にハイレベルになってくる。前回の話の内容が理解できていないとそのつぎに飲んだときの話は当然分からない。しかし、篠原さんの話はとにかく進化する。向かうところ敵なしである。相手が三隅先生であってもこの調子は変わらない。あるとき三隅先生が「篠原君には参ちゃったね」と言われたことがあるそうだ。星の数ほどいる三隅先生の弟子たちの中でも、先生に「参った」と言わせたのは篠原さんくらいのものではないだろうか。
 篠原さんとは三菱長崎造船所のリーダーシップ・トレーニングに一緒に行った。夜中までトレーニングがつづき、その後にまたウイスキーのボトルをやおら出したのが篠原さんだった。「モーレツ時代」の「モーレツ・トレーニング」の、いまや懐かしい思い出である。
 関さんと篠原さんは性格が対照的だと言ったが、アルコールに関してだけは、その行動傾向はほとんど同じだというのがわたしの意見である。
 ところで、関さん篠原さんの時代は研究所は川端にあった。発足当初は天神の富士銀行ビルの中の生産性九州地方本部に、そしてつぎにはそのお向かいの長銀ビルの一室に研究所があった。そこまでは文字どおり一室という感じであった。それが川端の西日本銀行博多支店に移転したのである。ここも部屋は一つではあったが、6人分程度のデスクのほかに応接用のソファーと作業用の机も置ける程度の広さがあり、いかにも研究所という雰囲気があった。もっともこのビルは戦前からのものだということで、地下にゴミ捨て場があったが、ここでは毎年慰霊祭が行われていた。福岡の空襲で地下で亡くなった人の霊を慰めるということであった。ビルの中には中村学園が運営する食堂が、近くには川端のそば屋やその当時はまだ珍しかったピザ専門店、ビジネスランチを出す喫茶店などがあり、昼食はあちらことらへと出かけるのだった。また夕方になるとビルの出口のすぐ横に屋台が店を出した。ここでついつい一杯やるともういけない。歩いて3分のところには東中州があるのだった…。