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  26歳の集団力学研究所(4)(1993)
      − リーダーシップ・トレーニングの開発 −
     

 昨年から「25歳の集団力学研究所」というタイトルで、私的な思い出を中心に研究所活動のあれこれを振り返ってきた。自分としてはまだまだつづけるつもりだが、このまま「25歳」というのではどうもおかしな具合になってしまう。いうまでもなく、研究所は日々成長しているからである。才能があれば、もっと気の利いたタイトルもひらめくのだろうが、残念ながら「これぞ」といういいタイトルは思いつかない。あまりパットはしないが、1歳プラスして「26歳」ということで行くしかないようである。これまでに、この雑文を多少なりともお読みの方がいらっしゃれば、ぜひいいタイトルをご推薦いただきたい。
 さて、今回のテーマは、リーダーシップ・トレーニングの開発である。わたしがはじめて参加したトレーニングは、ブリヂストンタイヤ久留米工場の班長を対象にしたものである。メモによると、それは1970年6月16日から19日にかけて行われている。大分県の天ケ瀬町にあるブリヂストンタイヤの保養施設が会場であった。現在われわれがPM式リーダーシップ・トレーニングと呼んでいるものの開発がスターとして間もない頃だったと思う。参加したといっても、わたしに特に期待されるような役割があったわけではない。諸先生、先輩方がすすめるトレーニングをじっと観察することで勉強をさせてもらったのである。最近のトレーニングではあまり使われていないが、グループ・ディスカッションにおけるメンバーのリーダーシップを測定するために、それぞれ自分の行動を自己評価し、同時に他のメンバーの行動についても評価する、いわゆる相互評価と呼ばれるものがあった。それは、トレーニングの中でももっとも重要な道具の一つとして使われていた。「自己評価」と「他者からの評価」はスタッフによって集計され、その「ズレ」なども計算して表にまとめられる。メンバーたちは、表に示されたデータを見ながら、討議場面に求められるリーダーシップのあり方を学ぶのである。特に、自分の評価と他者からの評価のちがいなどが明らかにされるため、「自分が思っているとおりに他人に伝わるとは限らない」という職場のリーダーシップ改善にとってきわめて重要なポイントが実体験できるのである。こうした気づきをもとに、次のディスカッション場面で「ズレ」を縮小するために新たな行動を試みることが奨励される。ときには、あえて行動せずに影響力を抑えるとどういった評価を受けるのかを試すこともできる。このようなことは、実際の職場ではとうてい実行できない冒険である。こうしたプロセスを通じて、他者に対する自分の影響力について、参加メンバーの感受性を高めていくのがトレーニングの大きな目標であった。先ほど、特別の役割がなかったといったが、実はわたしには、この相互評価の結果を集めてグループの平均やズレを計算し、それを模造紙に表としてまとめるという重要な仕事が与えられていた。畳の上にはいつくばって、マジックとT定規を使って表を書き込んでいたことが昨日のことのように思い出される。
 ところで、天ケ瀬の保養所の正面を流れる川の岸に露天風呂があった。わたしは、おそらくそのときはじめて露天風呂というものを見たのではないかと思う。ただし、お風呂にはいりにくるのはいつの時代にお嬢さんであったか、ほとんど想像もつかない人たちばかりであった。天ケ瀬に出かける前に諸先輩から、「あそこは露天風呂があるぞ」と教えられて胸をときめかせたのだった。わたしはそのとき以来、この種の話は話半分いや、話十分の一位にしか聞かないことにしている。「うまい話には気をつけろ」というけれど、これはどうも儲け話ばかりに限ったことではないようだ。
 さて、わたしにとってブリヂストンタイヤの2回目のトレーニングは翌71年の7月27日から31日に行われている。このときのことはあるニュースとの関連でよく覚えている。それは、メンバーたちはディスカッションをし、わたしは畳の部屋で相変わらず、相互評価の集計をしていたときだった。横でつけっぱなしにしていたラジオが事故のニュースを伝えた。自衛隊機と全日空のボーイング727型機が、岩手県の雫石上空で空中衝突したというのである。自衛隊機のパイロットはパラシュートで脱出したが、全日空機の方は全員が亡くなってしまった。このとき以来、「ニアミス」という言葉が流行語にもなった。まことに不幸な出来事であるが、こうしたニュースは、自分自身も旅先にいるときに聞くと、より鮮明に記憶に残るような気がする。7月30日のことである。
 ところで、この日程からもわかるように、当時のトレーニングはけっこうな日数をとっていた。単純に計算して4泊5日である。実は、ブリヂストンタイヤでは、最初の2日間はいわゆるTグループと呼ばれるものを組み込んでいたのである。Tグループそのものについて詳しく紹介する余裕はないが、はじめから特定の課題や目的を設定せずに、「いまここで(here and now )起こっていること」のみをグループ共通の問題にしながら時間がすすんでいく。トレーナーと呼ばれるリーダーもまるでリーダーシップをとろうとしない。日頃の会合やミーティングの要領とはかなり違っており、ストレスもかなり大きくなる。とにかく何をやっていいのかわからないのである。しかしながらこうしたプロセスを体験することによって、対人感受性が高まることが期待されていた。Tグループとは、 Training Group を意味しているが、「感受性訓練(Senーsitivity Training)と呼ばれていたのにはそうした背景がある。このTグループのトレーナーは、当時九州大学におられた安藤延男先生(現福岡県立大学長)と西南学院大学の白樫三四郎先生(現大阪大学教授)であった。お二人が同時にというのではなく、ある時には安藤先生が、別の機会には白樫先生がという形でトレーナーを勤められたのである。安藤先生はたいへん気さくな方で、このブリヂストンタイヤのトレーニング以来のおつきあいである。わたしが九大にいる頃に紀要に書いたTグループに関する小論は、安藤先生がトレーナーをされた時の記録が中心になっている。先生とは、露天風呂のあるべき姿についても親しく議論をさせていただいた。また、白樫先生も、実にやさしく楽しい先生でいらっしゃった。もともと髭が濃くて、その当時から電気剃刀はブラウン製であった。この音がまたものすごく、髭がそれるだけでなく近くの障子までふるえるほどであった。その先生がある朝突然、「吉田さん、あなた歯ぎしりするね」と言われた。それまで、自分ではそのことをまったく知らなかった。その後も、いろいろなトレーニングや調査で相部屋になることは少なくないが、「歯ぎしりをする」と言われたことはない。もちろん、それをしていないわけはないのだけれど、そうしたことを人はなかななか言ってはくれないもののようである。
 こうして、わたしのトレーニングとのかかわりが始まった。最初の体験で印象が強かったのか、わたしはブリヂストンタイヤのトレーニングには何回も行ったような気がしていた。ところが、今回調べてみると、卒論のデータ収集に、久留米工場に出かけたのを除けば、1974年8月20日から23日のトレーニングまで、3年ほど一気に飛んでいる。その次は1975年の10月7日から10月10日、10月21日から10月24日のトレーニングが続く。しかし、これ以後にはわたし自身がブリヂストンタイヤのお手伝いをした記録は残っていない。はじめのころは草場さんが、後半は大矢さんが、トレーニング担当の責任者であった。ご転勤などでお会いすることはなくなったが、お元気でいらっしゃるだろう。ブリヂストンタイヤには、わが集団力学出身の杠和俊君もいる。大学院生になってからも背が伸びたという長身の元気者で、現在は防府工場に勤務しているはずである。



 
  26歳の集団力学研究所(5)
      − 三菱重工長崎造船所における組織開発 −
  

 前回は、ブリヂストンタイヤにおける「PM式リーダーシップ・トレーニング」について、個人的な思い出を書いた。その時代は「リーダーシップ・トレーニング」の草創期で、その基本的な理念や方法論は、今日の「フォアマン・スクール」にまで引き継がれている。そういう意味で、このブリヂストンタイヤでの研究と実践は、集団力学研究所にとって大切な宝物である。しかし、こうした宝物はたった一つだけではない。このほかにも、ただ忘れられないから大切だというのではなく、その後の研究所の活動に欠くことのできない影響を与えた試みがいくつもある。 その代表的なものの一つが、三菱重工長崎造船所において展開された大規模な組織開発の試みである。もともとどういういきさつで長崎の造船所と研究所とにコンタクトが生まれたのか、その細かいいきさつは当時学部学生であったわたしには知りようがない。そのころ、すでに三隅先生は、バス会社における事故防止に関する研究において大きな成果を修めておられた。そうしたノウハウを、造船所における安全性向上のために導入したいということではたらきかけがあったのだろう。もっとも本当の事情は三隅先生をはじめ、当時の関係者の方々に確かめればいいのだが、ここではあえてそれはしないことにする。それは、もともとこのシリーズは個人的な思い出として書きはじめたものであり、研究所の正史を書くなどとといった大それたことは毛頭考えていないからである。
 さて、長崎造船所における組織開発で大活躍をされたのは、研究所の副所長であった高禎助氏(現在久留米信愛女学院短期大学教授)である。高さんは研究所からの出向者として、造船所の中に入り込んで組織開発に全精力を傾けられたのである。災害事故の減少と組織の活性化をターゲットに、「全員参画」「小集団活動」「リーダーシップ・トレーニング」など、現在の研究所の財産になる多くの試みがここで実践され、研究が進められた。そうした努力の結果は、「災害事故率」の減少として見事に身を結んだのである。その成果は世界的にも高く評価されていることは周知の事実である。
 わたしがはじめて長崎造船所とかかわりをもったのは長崎造船所の作業長を対象にした「リーダーシップ・トレーニング」である。長崎造船所のことが日記にはじめて出てくるのは1971年8月19日(木)のことで、21日(土)までの3日間、雲仙小浜の国民宿舎で、「リーダーシップ・トレーニング」が行われている。このすぐあとにも2回分の記録がつづく。それは、8月25日(水)〜28日(土)と9月1日(水)〜4日(土)の2コースである。最初が3日で後の2つが4日になっている理由はよくは分からない。しかしいずれもまず福岡から長崎に出かけ、1泊してトレーニング参加者と一緒にバスで小浜に出かけた。終了後はやはりバスに乗って諌早まで送ってもらい、そこで参加者と分かれて福岡に帰るのである。こうしたスケジュールからみると、最初のコースだけは福岡から朝早く出かけたのかもしれない。なにせこのシリーズのために日記の入った箱をひっくり返して、研究所とかかわりのある記事があるたびにメモをしたのであるが、この日程の違いまでは気がつかなかった。それなら、日記をもう一度確かめればよさそうなものだが、その日記はまた押入の奥深いところにしまいこんでしまった。いつものことだが、原稿の締切が迫ったいま、そこまでする時間的余裕がないのである。このことを忘れていなければ、またいつか日記を取り出すときに確かめることにしよう。もちろん、それがいつのことになるのかは分からない。とにしよう。
 さて、帰りのバスの中は、参加者もわれわれも一仕事を終えたという満足感から、いつもミニ宴会になった。諌早で別れるときには、参加者の大歓声に送られた。主たるスタッフは高さんと先輩の篠原弘章さん(現熊本大学助教授)であったが、参加者の熱い見送りの勢いをそのまま持ち越して、諌早から博多まで「トレーニング」の「反省会」がつづいた。列車だけでは反省会が終わらず中洲あたりまで延長されたこともあったと思う。はっきりした記憶はないが、「きっとそうにちがいない…」と思わせるのが高さんであり、篠原さんなのである。また、会社の担当者としては佐々木さんや西来さんのお名前が浮かぶ。佐々木さんはおそらく係長さんだったような記憶がある。ただお名前の方も必ずしも正しいという確信はない。まちがいであればお許しいただくしかない。まちがうことを覚悟しても、何ともなつかしく、つい頭に残っているお名前を書いてみたくなるのである。その佐々木さんはたいへん静かでまじめそのものといった印象であった。一方、西来さんは開放的、外交的なおじさんといった感じであった。わたしにとっては、このお二人のコントラストが実におもしろく、いいコンビのように思われた。たくさんの楽しい思い出をいただいたお二人ではあるが、もうあれから20年以上もお会いしていない。
 長崎造船所の記述は、翌1972年の3月にもある。14日(火)〜17日(金)まで、今度はPMサーベイである。したがって場所は造船所内ということになる。このときは先輩の橋口捷久さん(現福岡県立大学教授)だった。三菱会館という会社の宿泊所から船や車で往復した。宿泊所と行っても当時としては実に立派なホテルであった。まだまだ「ホテルは高級で旅館は比較的庶民的」という感覚の時代である。正式にはなんと呼ぶのか知らないが、いまではどこにでもある部屋番号のついたプラスティックのバーのついたキーをもらって、「かっこいぃー」と感激し、バスとトイレが一緒になっているのを見て、「これどうするの」と面食らった時代なのである。そういえば、旅館は襖や障子で部屋が仕切られており、わたしが泊まるようなクラスではまだ鍵すらなかったのではないかと思う。変われば変わるものだ。このごろでは、「ホテル」の方が気軽で一般向け、「旅館」の方がむしろ高くて泊まりにくいといった傾向があるような気がする。
 ところで、長崎造船所の門を入るところに、「三菱以外のお車でおいでのお客様は、次回は三菱の車をご利用ください」といった内容の看板が立っていた。高度成長、モーレツ時代、企業グループの結束力の強さとはすごいものだと驚いた記憶がある。
 「モーレツ時代」といえば、当時の「リーダーシップ・トレーニング」も、相当にモーレツであった。最初に予定されていたスケジュールは21時からせめて22時ころまでになっていた。ところが、例のKJ法によって職場分析をはじめたりすると、これはもうまとまるまでは終わらないのである。気がつくと、午前1時や2時ということもめずらしくはなかった。こうしたときの高さんのグループを動かすテクニックは絶品であった。「一生懸命にやっていたらあっという間に時間がすぎてしまった」というのが参加者たちの実感であり、その顔は満足でいっぱいになるのであった。そこには、「させられている」という感じは微塵もみられなかったのである。高さんは、実際の職場の中で実践活動を進めていることもあり、講義も具体的な事例を用いて迫力があった。その後も高さんについていろいろのところに出かけたが、わたしは実に多くのことを教えていただいた。
 1時にまとまっても、それで「おやすみ」ということはあまりなかった。夜食のおにぎりをつまみに、一杯がはじまるのである。「これは今日の分」といって、篠原さんがサントリー・レッドのダブルサイズを買ってきて、スタッフの部屋の畳の上にどーんと置いた光景も昨日のことのように覚えている。少なくともわたしの回りではこうしたことはもうなくなってしまった。昭和40年代のなつかしい一コマである。(93Y27)