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    25歳の集団力学研究所 (1992) 

 三隅二不二先生をはじめ多くの諸先輩の力で発足し、輝かしい研究を展開している集団力学研究所も今年で25歳になるはずである。10周年を迎えたときも、20年になると聞いたときも時のたつはやさに驚いた。それがもう四半世紀になるのである。とうとう「世紀」ということばがつくようになった。こうした歴史と伝統を誇る集団力学研究所の25年について、諸先生方を差し置いて振り返るなどどいったらきっとお叱りを受けるだろうとは思う。しかし、わたしにもそれなりの集団力学研究所に対する思いがある。ここでは、少しばかりこわごわではあるが、「私家版集団力学研究所の25年」について語ってみたいと思う。「まだ10年はやいよと」思われる方はこの原稿は読み飛ばしていただきたい。
 わたしが九州大学に入学したのは昭和42年(1967)である。この年に集団力学研究所がスタートした。わたしは教養部の学生会館で食事をとりながら、「集団力学研究所」ができたという記事の載った「九大新聞」を読んだ記憶がある。三隅教授の顔写真もあり、はやく進学したいものだとこころを踊らせた。実は九大に三隅先生が教授をされている「集団力学」という講座があり、いろいろな分野から注目を浴びているということはすでに知っていた。わたしの父はずっと以前から新聞のスクラップを熱心にしていたが、その中に西日本新聞の企画で九大の研究を紹介する「大学群像」というシリーズの切抜きがあった。そこには三隅先生のハワイの海岸を背にした写真とともに「集団力学」や「PM理論」についての話題が掲載されていたのである。高校生だったわたしはたしかにこの記事を見た記憶がある。「わしのほうが先見の明があるな」とはこの頃の父の口癖である。もちろんこのスクラップはいまでも父の手元にあるはずである。それにしても、わたしもこのときの先生の年齢になってしまった。鏡を見るまでもなく、何という貫禄の差であろうか。ついでながら、三隅先生もわたしもネズミ年であるが、ずいぶんスケールの違うネズミではある。
 さて、わたしは進学するのも待ちきれず、まず日本グループダイナミックス学会に入ろうと思った。さっそく、箱崎の教育学部に出かけて学会に入会する手続きをとった。だからわたしの学会歴は年齢の割にはけっこうなものである。その時に窓口になった人がいまの三角恵美子副所長である。だからこの人とのつきあいも実に長い。
 わたしはそれほど向学心に燃えていたのであるが、世はスチューデントパワー爆発の時代。42年10月の「佐藤訪米阻止闘争」で京都大学の学生が死亡するという事件が起こった。このあたりから大学だけでなく世の中全体が騒然としはじめた。翌43年の1月には「エンタープライズ」が佐世保へやってきた。九大教養部は「エンタープライズ寄港阻止」の前線基地となった。「寄港阻止」の学生たちが学生会館を根城にして、博多から佐世保へ出かけ機動隊とやり合った後に再び教養部へ戻ってくるのである。教養部の学生会館に入ると眼が痛くなったことを憶えている。学生たちが佐世保でかぶった催涙ガスが福岡までついてきていたのである。こんな時に、またあっというような事件が起こった。その年の6月に米軍板付基地のジェット戦闘機ファントムが折から建築中の「大型電子計算機センター」に墜落してしまった。文字どおり「火に油を注ぐ」ような大事件である。建物の回りにはアイソトープ総合センターやコバルト照射実験室などがあり、もしこれらの施設に墜落していたら、福岡市には何年か住めなくなるところだったという記事が出るほどであった。建築中の建物で高価なコンピュータはまだ設置されておらず、しかも夜だったこともあって、人もいなかった。不幸中の幸いとはこんな時にいうのであろうか。それからは九大も全国の流れに遅れることなく、「無期限ストライキ」と続いていく。学生集会では「無期限ストライキ突入」を決議するために、挙手で決めようということになった。女子学生もずいぶん多くいた。わたしはすかざず手を挙げて、「無記名投票でないとほんとうのところが言えない人もいるんじゃないでしょうか。集団圧力と言うものがあるんですよ」と発言した。いわゆる活動家の人たちから、「実に馬鹿なこと言う奴だ!!」という冷たい視線を向けられたことが印象的だった。当然、「こんなアホの言うことなんか、ナンセンス!!」とばかりこの発言は完全に無視されて「無期限ストライキ」が決定したのである。その時の票数が1票差であったことも鮮やかに憶えている。そしてこれには後日談がある。ようやく学園の嵐も過ぎ去って、いわゆる正常化がはじまった。当然、「無期限ストライキ」を解除するかどうかの学生集会が召集された。時代の流れを反映して、今回は「ストライキ解除」が決議された。ところがこのときの賛否の差がやはり1票だったのである。最高の皮肉と考えるか、人間の行動のおもしろさというべきか。
 こうして、わたしたちは何をしていいのかわからなくなってしまった。「産学協同の研究をやってる君たちは大学にいかないほうがいいよ。ブルジョアの手先とばかりやられてしまうかも知れないから」と親切に忠告してくれる先輩がいる始末であった。こんなとき、下宿にいたわたしに電話がかかった。当時大学院生であった、関文恭先輩(現九州大学教授)からである。「集団力学研究所で調査をするんだけど、手伝ってくれない?」何かをしなければと思い悩んでいたわたしが、「お手伝いします」と答えたのは言うまでもない。当時の集団力学研究所は天神の長銀ビルにあった。いそいそと出かけたわたしは、関先生から「黒崎窯業のリーダーシップ調査」をすることを知らされた。
 ここまで書いてきてすでに予定の字数になってしまった。「集団力学研究所の25年」どころか、まるで私的な短い「思い出ばなし」である。「わたしと集団力学研究所」あたりが無難かも知れない。要するに標題に偽りありというところだが、あえてそのままにさせていただきたい。実は、このつづきを書いていきたいという下心があるからである。2、3回分をまとめると「25歳の集団力学研究所」にならないものだろうかとこころひそかに期待しているというわけである。


 
  25歳の集団力学研究所(2)
    

 日本語はおもしろい。「言いたくはないけど…」と言いながら好きなことを言う。「どうせ漏れるに決まってる」と思っていながら、「ここだけの話だけど…」ともったいぶって人に話をする。わたしも、「自慢ではないが」と言いながら大いに自慢したいことがある。それは、高校1年生の11月からこの方、毎日欠かさず日記を書きつづけていることである。わたしが高校に入学したのは1964年(昭和39年)のことで、あの東京オリンピックが開催された年である。それからもう28年になろうとしている。もちろん毎日書きつづけるのだから、内容のレベルを気にしてはいけない。仲間と一杯やる予定でもあるときなど、とても夜にまともに日記をつける自信などあるはずがない。しかし、こんなときでも日記を書きそこねる心配はない。なぜなら、そういうときは朝起きてすぐにその日の日記をつけるから…
 つい、前置きが長くなってしまった。実は今回の原稿を書くにあたって、その日記をひっくり返してみた。前回この欄で、記憶のままに、わたしが関文恭先生(現九州大学教授)から、研究所の仕事に初めて誘われたのは、「黒崎窯業のリーダーシップ調査」であったと書いた。それをしっかり確かめようと思ったのである。ところが日記によると、この記憶はまちがっていることが分かった。わたしのデビューは「黒崎窯業」ではなく、正金相互銀行(現福岡中央銀行)飯塚支店での「リーダーシップ」調査であった。1968年(昭和43年)11月20日(水)のことである。そういえば、チーフは藤田正さん(現大阪女子大学助教授)だったような気がするが、対象者の人数分の調査票と回答用紙のセットを持ってバスで出かけた記憶が蘇ってきた。当時の研究所では、調査のたびにスタッフが出かけていくというシステムをとっていた。そのため、できるだけ長持ちするようにと厚手で上質の紙を使った調査票を作ったのだが、数が増えるとそれだけでも結構重くなった。いくつかの工場や支店を回るときには、そのうち最も多い人数の現場に合わせて調査票の数が決まるのである。これに、回答用紙が別紙として用意されていた。いくつもの場所で調査をする場合には、回答用紙もそれに応じて増えてくる。こちらも厚手の紙であったから、数が多くなるとこれまたそれなりの重さになってくるのであった。もちろんその当時は宅急便などというものは発明されていなかったから、調査に出かけることは体力が要求される仕事であった。それでも、いまのように学生が自由気ままに旅行できるような時代ではなかった。たとえ九州内であっても知らないところへ旅費をもらって行けるということで、みんな結構楽しんでいた。
 ところで日記によると、最初の調査に出かけたとき、正金相互銀行の担当者の方から、「吉田先生です」と紹介されて、驚くとともにはずかしかったと書いている。実に素朴な20歳の若者である。それから2倍を超える年齢に達して、この頃は相当に厚かましくなってきた。「初心忘るべからず」ということわざの重みが感じられる。
 さて、例の「黒崎窯業」は、わたしにとって2回目の調査であった。正金相互銀行でのデビューから11ヶ月後の1969年(昭和44年)10月25日(土)から調査がはじまっている。最終日と思われる11月4日(火)の日記には、特筆すべきことが書いてある。それは、「戸畑ステーションホテル」でフルコースをご馳走になったことである。もちろんフルコースなんて初めてのこと、フォークやナイフが何本か並んでいて、それをどうやって使っていいのか分からない。仕方なく、となりに座っていた関先生のする通りに真似をしたようだ。さらに、その関先生の行動と前席の会社の方の行動が違っていたこと。これはいったいどちらが正しいのだろうかと迷ってしまったことなどが記録されている。鋭い観察力というべきだろうか。とにかく初めてのことで、よほど印象深かったのだろう。「こんなことまで書かれてはかなわない」という関先生の声が聞こえてくる。
 その後日記からは西日本相互銀行(現西日本銀行)にも出かけ、さらに1970年(昭和45年)には福岡相互銀行(現福岡シティ銀行)の調査の手伝いをしたことが分かる。福岡相互銀行の場合、7月13日(月)から16日(木)までの日程で、門司、下関、広島、徳山と回り、最後は大阪支店で調査を終えている。12日には、「生まれて初めてひとりで旅館に泊まった」と記している。さて、1970年といえば大阪で「万国博」が開催された年である。アメリカ館には「月の石」が展示され大変な人気であった。ソビエト館も天にまでとどかんばかりの尖塔のようなパビリオンで、それに対抗していた。ところで、期間中に大阪まで行ったのだから、「万博」には出かけてみたいと思うのは当然である。ところが当日売りの入場券がなかったか、あるいはあってもそれを手にするのがおそろしく難しかったかのどちらかの理由で、わたしは「万博」を諦めていた。そんなとき、福岡相互銀行の調査が終わったあと、大阪支店の方から、「入場券がありますが、一緒に行きませんか」と誘われたのである。「世の中にはなんと親切な方がいらっしゃることだろう」と一も二もなく、そのお誘いに乗ったのはいうまでもない。これもこころに残るすばらしい思い出になった。もっとも、アメリカ館はあまりにも人が多く、帰りの列車に間に合わないということで、とうとう入場することはできなかった。「月の石」を見損なった残念さは忘れられない思い出となった。実は、その「月の石」を昨年の8月にこどもたちとスペースワールドに出かけた際に見ることができた。なんと21年ぶりの夢の実現だったが、「ああ、これ?」と大した感動もしなかった。それだけわたしが夢を持てなくなってしまったのだろうか。
 

 
  25歳の集団力学研究所(3)
  

 「バブル」ということばは、お風呂の健康器具のコマーシャルですっかりなじんでいたが、途中から「金あまり経済」の呼び名になった。そして「バブル」がはじけて、いまや日本中が世紀末の様相を呈している。まさに、「淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)はかつ消えかつ結びて…」の「方丈記」の世界である。なぜか、「バルブがはじけた」という人もいるが、こちらの方が爆発的なニュアンスがあってもっとすごそうな感じがしないでもない。「内定取消」の憂き目に会った若者たちも少なくないようだ。「つらい時代にこそ気持ちをしっかり持つことがなにより。将来この経験がきっと役に立つこともあるよ」といって慰めるくらいのことしかできない。
 しかし、それにしてもわずか数年の差がこれほどにも違いを生むのだから、世の中はおそろしい。ある校長先生が、「証券会社の娘のボーナスの方がわたしよりも多いからまいってしまう…」と半ばうれしそうな顔で話すのを聞いたのは、ついこのあいだのことだった。「花長風月(形企業、期休暇がある、社がいい、給が高い)」でなければと、ひどく要求水準が高い学生たちにあふれていたのも、そんなに昔の話ではない。ところがつい最近、研究所のスタッフが仕事で遅くなってタクシーに乗ったところ、運転手から「いままで残業ですか。景気がいいですなー」と言われたと聞いて笑ってしまった。いや笑ってはいけない、研究所は本当に景気がいいのかも知れない…。まさに、「経済の循環」を実感するこの頃である。
 ところで、「循環」といえばわたしが学部を卒業する前後はかなり景気のいい時代だった。1970年頃のことである。当時は、大学4年生になる前、つまり3年生の春休みに、すでに就職が内定しているものがいた。そして、マスコミ関係など、もともと採用試験が遅いところを除いて、6月頃までにはほとんどの学生がどこかに決っているという状況だった。上京していくつもの会社を訪問し、それぞれの会社から旅費をもらって、東京見物もして帰って来るというのが、一種の流行になっていた。そして、いかに多くの会社に行って、たくさん稼ぐかが、話題になるのであった。もちろん、これほど景気のいい話はとくに法学部や経済学部の連中に圧倒的に多かったが、教育学部でも「集団力学」を専攻した学生には、結構お声がかかった。わたしは、すでに書いたように向学心に燃えていたつもりであり、「大学院に進学するぞ」という強い信念を持っていた。とくに、しばらく前に三隅二不二先生から「大学に残らないか」と言われていたこともあって、就職のことはまったく頭になかった。もっとも、あとで聞いた話だが、三隅先生はだれに対しても「大学に残らないか」と誘っておられたらしい…。いずれにしても、そんな状況の中で、わたしも友人に誘われて一社だけ面接を受けたことがある。生命保険会社だったが、福岡で1次の面接をして、もし合格したら2次は東京で行うということだった。その2次には「飛行機」で連れてってくれるという。この「飛行機」という誘いが非常に効いたのである。その頃は、飛行機は「どえらい人」か「えらくなくても金持ちの人」くらいしか乗れない時代である。「えらくも金持ちでもない」学生には飛行機に乗るのは夢のまた夢であった。もちろん、「どうせ通らなくてもともと…」という気持ちだったが、そうした居直りが意外に力を発揮するものとみえる。何と1次に合格してしまったのである。そして、「生まれてはじめて」飛行機に乗ったのが、1970年4月23日(木)のことであった。すばらしく天気のいい日で、初飛行にもかかわらず美しい富士山を真下に見ることもできた。飛行機が嫌いな人のなかには、初めて乗ったときに搖れて恐かったからという人がいる。初体験が悪いとその後の気持ちにマイナスの影響をおよぼすようだ。やっぱり初飛行は印象が大事だ。そして、わたしはすっかり飛行機が気に入ってしまった。しかし、本人がいくら気に入っても、そうそう乗せてくれる人はいない。採用試験を受けたこの会社も、帰りは「新幹線」の切符をくれただけだった。わたしが2回目に飛行機に乗るのは、それから随分たってからのことである。
 さて、羽田に着いたわれわれは当時できたばかりという本社に直行し、2次面接を受けた。この面接で記憶していることが2つある。一つは、「『X理論、Y理論』というのはどんな理論ですか」と聞かれたことである。もちろん、その当時の知識で一生懸命に答えた。そして、もう一つは、わたしの方から、「大学院に進学したいと思っています。10月に試験がありますが、もしこの試験に合格したら、就職はできないことになりますがよろしいでしょうか」とたずねたことである。採用されるとも何とも決まっていないのに、なんともあつかましいはなしである。しかし、本人は真面目そのものであった。「大学院に行くぞ」と決めているのであるから、万に一つでも採用されれば、「内定したのだから約束を守れ」と責められては困ると本当に心配したのである。「臆面のなさ」と「生真面目さ」は両立するものだと思う。それともこうしたアンビバレントな感情を持てるのはわたしだけのことだろうか。当然のことながら、会社の人は「それでいいですよ」と言ってくれた。ほっとしたと同時に、「こんなこと言ったんだから採用してくれるはずがない」と確信した。ところが結果的には、採用が内定してしまったのである。九大から3人だったか4人だったか、当然記憶にはない。わたし以外は法学部か経済学部の人だったが、何回か福岡でご馳走にもなった。「懇談会」といった呼ばれ方をしていたが、これは、「内定者」を引きつけておくための会合だったと思う。
 さて、いよいよ10月がやってきて、大学院の入試を受けた。第2外国語のフランス語などマイナス点をとったのではないかと思うほどだったが、とにかく結果は合格であった。そして、約束どおり会社からは「就職しない」ことを了解してもらった。その後も、「もし気が変わったらいつでも採用するから」というありがたいお話もいただいた。四国の支店で勤めている九大の先輩からも、「いい会社だからぜひいらっしゃい」というお誘いも受けた。結果的にはお断りすることになったが、いまでもこの会社のビルを見ると、すこしばかり申し訳ない気持ちがする。また、「もしここに入っていたら今ごろどうなっているだろう」とちらりと思うこともある。そんなところだから、生命保険くらいは入っても良さそうなのだが、実はわたしが加入している保険は他の会社のものである。何分にも父が若い頃生命保険の会社に勤めたことがあり、また従兄弟も保険会社の現役社員なのである。残念ながら、どちらも採用を内定してくれた会社とは違う会社である。こうした義理と加入する保険会社とにはまことに強い相関がある。
 あっという間に紙数がつきた、というより超過してしまった。またしても、「25歳の集団力学研究所」というタイトルとはかけ離れた、プライベートな思い出になってしまった。本当は「リーダーシップ・トレーニング」の開発について書くつもりだったのだが、「1970年6月16日 天ヶ瀬へBSのトレーニングに行く」というメモの前に、「4月23日 飛行機に初めて乗る」という記事があり、ついこちらの方を書きたくなってしまったのである。とにかく編集担当者にご一読いただいて、うまくなければ、今回は「没」にしていただこう。研究所のことだから「没」だとなったら、「書き直せ」と言って来ることも予想される。しかし、今回はもう時間がない…。